模型に限らず、趣味というものはそれなりに熟練がものをいう世界です。
僕のように年間1つ完成品があるかないかの人間はともかくとして、大抵の場合、趣味に費やした時間が長ければ長いほど、その趣味への造詣は深くなるものです。
ですから、なにごとにも例外があるとはいえ、1年目のモデラーと10年目のモデラーとでは、見えてるものもやってることも出来上がるものも、少なくとも熟練の分の差が出ます。
1年目の僕が到達する境地は、10年目の誰かが毎年到達してきた境地でもあります。
1年目の僕が初めてする発見は、10年目の誰かが10年前に知った事実でもあります。
1年目の僕には、10年目の誰かがどんな経験をしてきたかがわかりません。
10年目の僕には、1年目の誰かがどんな経験をしているのかがわかるようになります。
だから、1年目の僕が失敗の道に迷い込もうとしたとき、それを止めるのかそれとも迷ったあとで導くのか、10年目の誰かは迷ったことでしょう。あるいは10年前の自分がそうだったようにあえて口を出さなかったのかも。
たとえるなら、新雪に足跡をつけようと外に出たらもう誰かの足跡が遠くまでついている、それが趣味の世界です。誰かの足跡の隙間を踏んで歩くか、それとも誰かの足跡を辿りながら結果として他の人が行かない遠くに足跡を残すか、足跡を残すことではなく皆と雪遊びをすることにシフトするか、「わっ!雪汚なっ!人多っ!俺やることねっ!さむっ!」で家の中に戻るか、いずれにしても、雪積もる遊び場には既に人がいることだけはたしかです。
先に外に出た人は、すでに雪で遊んでる人です。扉の外に出てきたばかりの人に気づく人も、気づかない人もいます。
気づかない人は、雪遊びに夢中です。すでに雪遊びに費やした多くの時間を共有してきた仲間とともにいます。
気づいた人も、そうです。すでに同じ時間を共有してきた仲間がいます。
けれども、扉を出たばかりの人は違います。誰かと一緒に出たとしても、まわりは楽しそうに雪遊びをする人ばかり。扉の前に立ったばかりの自分たちは、雪だるまも雪合戦もどこで楽しんでいいのかさえもわからずに棒立ちしています。
「ふたりではじめよっか」と言ってみたものの、周囲の歓声がうらやましいような邪魔なような、見よう見まねでやってみてもどうにも楽しめません。かといって周囲の仲間に入るには、「よろしくおねがいします」からはじめなくちゃいけない気がして、なんだかみんなの遊びの手を止めさせることに躊躇します。
「かんじわるいね」
だから、趣味をはじめたばかりの人は、そう思いがちです。
僕もそうでした。
「敷居が高いね」「閉鎖的で初心者が入れないよね」
そんなことばが、ふとキーボードを打つ指の先に生まれたりするのです。
でも、ひとりならひとりなりに、狭いコミュニティならそれなりに、最初の1年を過ごしてみると、すぐに周囲で遊んでる人が寄ってくることに気がつきます。
2年目には、また扉の外に誰かが出てきます。「やあ、来た来た」と遠巻きに集まる中に、いつの間にか自然に自分が混じっていることに気がつきます。
3年目には自分が大きな遊び場の住人であることに気がついて、4年目には自分の周りに人がいることに気がつきます。5年目くらいから遊び場ごとに雰囲気が違うことに気がついて、6年目からはどの遊び場に腰を据えようなんて色気を出します。7年も経てば新しい遊び場を開拓したり、8年目ともなると周りに声をかけていろんな遊びを作ってみたり、9年目を過ごしたらひとまず落ち着いて自分なりの遊びの愉しみ方を整理してみたり。
そして10年。「案外、出てきた扉から遠くに離れちゃいないもんだなあ」と気づくのです。
つまり。
悲観的に言えば、閉鎖的でない趣味はないのです。敷居の低い趣味も、ないのです。
誰でも、趣味を始めたばかり、扉を出たばかりは、自分と周囲との差に臆するものです。楽しんでいる周りの歓声と、どう楽しんでいいのか戸惑いの中で無言でいる自分とに戸惑うのです。
逆に、その差を感じた人がいることをもって「うわ、私の趣味の敷居って、高すぎ…?」と必要以上に考えすぎない方がいいんじゃないかなあ、と、もう半世紀近くも高い高いと言われる敷居との戦いを繰り広げている模型趣味のまっ只中で思ったりしたのでした。
なんにしても、趣味を楽しみながら、部屋の中からこっちを見てる人に「そのドア、開けないんですか?」くらいのスタンスが、ちょうどいいんじゃないかなあ。
そこで相手が眉を顰めたからって、僕の楽しさがどうかなるってわけでもないし。


